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▼ロバさん:
おひさしぶりです。
>千葉で実現し代表で実現しつつあったオシムのサッカーは一つのムーブメントとして広がることはあっても、日本代表のサッカーとして普遍のものになるなんていうのは幻想だと思ってます。
あのサッカーはやはり、いくらオシムとは言え、所詮ひとりの外国人監督が考えた「日本人に向いたサッカー」というもので、それはやっぱり幻想でしょう。
「日本化」とか言っても、そういうのは結局ひとりの外国人が見た表層的な日本人の捉え方にしかならないとぼくは思うし、日本のこれまでのサッカーの歴史とその志向、これまでの積み重ねと経験、さまざまな見聞、そうそう「これが日本人らしいサッカーだ」なんて言えるものでも言われるものでもないとぼくは思ってます。
そもそもああいう「コンセプト・プロダクツ」的なものが普遍的になったことなんてないですから。
もっと、持てるものをすべて吐き出し、ありのまますべての血肉をぶつけるようなものでないと。
もちろん良いエッセンスはたくさんあった。
DFの捉え方、「考える」こと、「動く」こと、リスクを負うこと。
でもその総体としてのオシムのサッカーには、ぼくはどうも賛成できなかった。
画一的で窮屈で過度に現実的で夢がないと感じた。
妙にコンセプチュアルで、まとまりすぎていて(チームがではなく)、窮屈な感じだった。
人選もサッカースタイルも戦術も戦略も。
あれが「日本代表のサッカーとして普遍のものになる」というのはぼくは非常に嫌だし、ならないだろうとも思う。
たとえサッカー人全員がオシムに触れたとしても、です。
たぶん日本人が求める日本代表のサッカーは別にある。
モデルさんは「良いエッセンス」までも消えてしまったのは良くない、と言っているだけでしょうけれども。
>少年サッカーでも当たり前に言われることをなぜこれほど代表ファンが新しい教えのように感じるのかは不思議です。
それだけ代表の影響はまだまだこの国では大きく、そして「当たり前に言われること」は、まだまだ「言われるようになったばかり」で決して根付いておらず、ともすると現実の試合の中で忘れられがちになる存在でしかない、ということなのでしょう。
トルシエの時に流行った「ウェーブの動き」も同じでしたね。
「そんなの今更言われなくたって知ってるよ」と言った選手もいたそうですが、「だったらなんで今までやってねーんだよ!」って感じでしたしね。
そういうひとつひとつを、まだまだ強調しないと、そうしてひとつずつ本当の「当たり前」にして行かないとならない、という状態だってことでしょうね。
ぼくはサッカーの上手い下手は、「脳みそ」だと思ってますが、そういう価値観での選手評価ってあまり見ないですから、オシムが言ったことが新鮮に捉えられるのもわかる気がします。
(なのになんでオシムが山瀬を使わなかったのか、よくわかりませんが)
>とにかく今の小笠原あたりが入らない代表は単なる実験室でしかないと思います。ボチボチ本番に戻して欲しいというのが本音です。
どっち転んでもおかしくない微妙なトコにいるな〜というのがぼくの実感ですが・・・
でもね。
内紛、造反、そして結束、再生・・・
そんなカオスを内包し、それを乗り越えたものだけが本物になる。
究極のエンタテイン。
そんなハラハラヒヤヒヤドキドキワクワクも良いじゃありませんか。
・・・ってレッズファンはまた味わっているんですが(笑)
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