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▼gliderさん:
こんにちは。ボリュームのある熱いレス、大変なエネルギーを使わせているようで、恐縮です。
>ぼくが感じるのは「こういうことが必要な時期がある」ということ。
>一度、素に戻ること。
>そういう意味では、ジーコは今、適任です。
>本音を言ってしまえば、体制として「では2006年までこのまま行けば良いのか?」とはまったく思いません。
そこまで言うか?もう少し甘くても・・・・・・・・・・ともおもうけど。
多少ニュアンスが違うでしょうが、僕も結論は同じようなものかもしれません。
グライダーさんと最初に出会ったときを覚えておられますか?僕が「日本の位置づけは世界の中でどの位なの?」と言うような趣旨の質問をしました。
今また同じように、素のチカラはどの程度通じるものか、知る機会ができたように思います。
でもこれは、ジーコはいてもいなくても同じだ、と言っているようなものですね。まずいですね。
>>不自由な中で自分を出そうとするから主体的なのであり、さまざまな制約の中で己を表現するのが創造なんじゃないかな?
>>トルシエ時代最後の「麺のコシ」は、制約だらけの厳しさの中から生まれたからこそチカラを持ったのだと思います。
>ぼくは、トルシエのやり方をそういう面では「制約だらけで厳しい」とはあまり思ってないんですよね。
あっ・・・これ僕も同じです。
世間の論調に、トルシエの時は約束事ばかりで、個性が出せなかった。ジーコは自由にやるから力が出せる。と言うような空気を感じたので、それに対して感じたことを言ったまでです。
ですから、それ以降おっしゃられていること、ほとんど異存ありません。
ただ、僕は規制があるからキビシイ、あるいは自由だから余計難しい、とは思っていないんです。
大体表現をしていれば、制約だらけじゃないですか。重力があり、素材の性質があり、媒体の問題があり・・・・・・何より己の能力の限界があり。
そこにいくつか新たな条件を付与されたところで、まあ、無いに越したことは無いんですが、いかほどの事でもない。
自由だから難しい?とはいっても、ほとんどの場合方向性を見極めるのが難しいだけで、それさえ決まればあとは同じこと。
ですからあえて異論があるとすれば、
>実戦での応用はすべて選手ひとりひとりが、選手達が、自ら考えなければならない。
>それはトルシエ時代よりも厳しいこと。
この部分かな、トルシエ時代もジーコ時代も、難しいさにさほど変わりは無いんじゃないかな。
>そして間違いなくそのうち「木っ端微塵」にされるだろうとぼくは思っています。
>「木っ端微塵」に早くされて欲しい。そうして「ジーコが」ではなく「自分達で」考えて欲しい。
>何も助けのない、「秘伝のスープ」も何もない「麺」だけで勝負し、「なんだこの麺は!」と言われれば良いんです。
>そうしてはじめて、ちゃんとした麺にならなければ、と考える。
おっしゃられること、ごもっともです。
しかし、僕には煩悩があって欲が深いんです。ですから、何もすべて0から始めなくても「秘伝のスープ」があって、さらにそのうえに同じ努力をしたらもっと上にいけるんで無いの?なんて思ったりもするのです。でも、素のチカラも知りたいし。南無・・・・・・・
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