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日本代表の監督選び。
何やら、「名古屋グランパスの二の舞」になりそうで、ちょっと不安な面もあります。
あの時は、「ベンゲル」の後に、大物監督の「ケイロス」を呼んで失敗し、その後も、一体、このクラブはどういうサッカーがしたいのか?ということがはっきりしないままに、次から、次へと、監督を交代し、途中で、ベンゲル指揮下でコーチをやっていた田中氏が監督を務め(日本代表で例えるなら、トルシエ指揮下でコーチを務めた山本氏へのバトンタッチということが考えられます。)、最高勝率は、残すものの、「名古屋スタイル」の確立へは至らず、結局、解任。その後、フロントが、ジョアンカルロスを呼び、「名古屋スタイル」を確立してもらえるよう、長期政権構想を打ち出し、全てを託すが、戦術的な見所がなく、失敗。結局、ベルデニックが就任し、戦術的にも「現代的なスピードサッカー」に対抗できる「名古屋スタイル」の基礎の確立へ向けて動き出し(これも、市原が単に、結果を出したから、勝てるって理由だけで目をつけたわけで、あとは大金を積んでの引き抜きという、ある意味、結果オーライなやり方。市原にベルデニックがこなければ、就任の可能性は低かった。)「ベンゲルの亡霊」から解き放たれる。
つまり、クラブ側として、「どういうサッカーがしたいのか?」という、「スタイル」の一貫性を追及しないで、「名前だけで監督を選ぶ」と上手くいかない可能性があるということです。
一端、スタイルが根付けば、ある程度は、スタイルを気にしないで、監督を呼んできてもよいとは思いますが、この時の、名古屋、および、現在の日本代表は、ベンゲル、トルシエが、そのスタイルの基礎となる部分を、チームに植付けて去っていった状態です。今の状況は、ここから、さらにそのスタイルを発展させ、上積みし、完全に、「名古屋スタイル」、「日本代表スタイル」を確定させなければ、ならない時期です。つまり、「ゼロからの出発」は、あくまでも、「ベンゲル、トルシエ」路線にあった人を連れてきての「ゼロからの出発」ならまだしも、「その他のスタイルを用いる」人を「名前だけ」で連れてきてからの、「ゼロからの出発」だと、非常に、不安定なチーム状態になってしまうということです。(浦和レッズにしても、同じ過ちを繰り返していますが。)
さらに、ベンゲル、トルシエ、ベルデニックあたりに共通していえることは、「チーム作りや、戦うこと」に長けているだけでなく、「戦術的に見所があり、戦術的にチームをひっぱっていける」、戦術家としての、能力があるということです。
名古屋にしても、日本代表にしても、「戦術」を、このチームのスタイルとしてはっきりと植付けました。ですから、次に来る監督は、やはり、「チーム作り」だけでなく、「戦術的に引っ張っていける人」を連れてこなければならないのです。そのスタイルの源流に流れるものが「戦術的な見所」にあるということを、忘れてはならないでしょう。
ちなみに、Jリーグのチームでも、チームの核となる戦術を持っている、その戦術が浸透しているチームは、良いサッカーをしています。逆に、これといった、戦術的特徴がないようにみえるチームは、苦しい戦いをしています。
さて、ジーコの「戦術家」としての能力がどれだけあるのか。果たして、現代スピードサッカーの流れにしっかりと対応できる、戦術を用意して、それを浸透させることができるのか。そして、ここ、12年間(オフト、加茂、トルシエ路線)ほどで、徐々に作り出してきた、日本代表のスタイルを確立することはできるのかどうか。注目したいと思います。
それが、別に、南米スタイルであっても、現代スピードサッカーの流れに反していなければ、問題ないとは思います。
ちなみに、川渕氏は、ジーコの「チーム作りの手腕と、戦えるチームにできること、そして彼の率いたチームが結果をだせるようになること」をみて、監督に選んだんだと思います。そこでは、「スタイル的なもの」は考慮してないはずです。つまり、「勝てればいいのさ」って発想。
本来は、「どのようにして勝つのか?」という発想で、監督選びをしないといけないんですけどね。
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