|
▼zukunasiさん:
こんにちは。
>どうもあまり面白くなくて、見方を変えて「素うどん」でどこまでやれるのかを見ようかと。
そうですね。
面白くないです、たしかに。先が不安にもなるし。
ぼくが感じるのは「こういうことが必要な時期がある」ということ。
一度、素に戻ること。
そういう意味では、ジーコは今、適任です。
本音を言ってしまえば、体制として「では2006年までこのまま行けば良いのか?」とはまったく思いません。
一番心配なのは、アジアカップを「そこそこ」の成績で乗り切ってしまうこと。
「ベスト4」あたりがそれにあたると思いますが、そうなると改革は難しくなる。
「更迭」にしろ「辞任」にしろ、実権を握る優秀な「外国人の」アシスタントコーチがつくにしろ、そういうことがないとアジア予選で苦労しそうだし、本戦に出ても厳しいでしょう。
「自国開催」による優遇措置もないクジにそうそう運はないでしょうし。
ということは、いずれにしろ「協会の改革」ないしは「協会の世代交代」が必要不可欠だとぼくは思っているわけです、そろそろ。
>不自由な中で自分を出そうとするから主体的なのであり、さまざまな制約の中で己を表現するのが創造なんじゃないかな?
>トルシエ時代最後の「麺のコシ」は、制約だらけの厳しさの中から生まれたからこそチカラを持ったのだと思います。
ぼくは、トルシエのやり方をそういう面では「制約だらけで厳しい」とはあまり思ってないんですよね。
試合には必ず敵が存在する以上、そしてサッカーが集団競技である以上、コミュニケーションのスポーツである以上、制約というより約束は必要です。暗黙のものであれ訓練されたものであれ。
自分だけの自由では結局不自由なだけですから。
「オートマティスム」の本質は、「敵」から「自由」になるための方策を与える、というもののはず。
習慣化した動きを無意識化することによって、選手間の距離は保たれ、「オフザボールの動き」を行え、ピッチ上の選手により多くの自由を提供できる。
ピッチの上で選手が自由を求めて戦う相手は自軍の監督ではなく「敵」ですから。
今度は、何から何まで自分達でやらねばならないんですよね。
ジーコは組織としては「当たり前」な基本の基本しか教えていない。
それだけで戦えるわけがありません。
実戦での応用はすべて選手ひとりひとりが、選手達が、自ら考えなければならない。
それはトルシエ時代よりも厳しいこと。
そして間違いなくそのうち「木っ端微塵」にされるだろうとぼくは思っています。
「木っ端微塵」に早くされて欲しい。そうして「ジーコが」ではなく「自分達で」考えて欲しい。
コパアメリカでもいいし、アウェーでの強国との対戦でもいいです。
一刻も早く粉々にされればいい。
何も助けのない、「秘伝のスープ」も何もない「麺」だけで勝負し、「なんだこの麺は!」と言われれば良いんです。
そうしてはじめて、ちゃんとした麺にならなければ、と考える。
いくら優れた戦術があっても、結局はサッカーは人間がやるものですから、最後は「人間」が勝負です。
トルシエ前監督は、優れた戦術を与えたけれども、なかなかにおいしいスープだったけれども、ぼくは結局「麺」が不満でした。
そこにこのうどんの限界があった。
だから、一度「素」に戻らなければ。
>まあそれで良いのだと思います。選手自身がそれを打破しなければいけないんです。
ということで、その通りだと思います(笑)
|
|