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追記。ただ書きたいだけです。すいません。
サッカーがコミュニケーションのスポーツである、
というのはですね、こういうことだと思っています。
子供たちがサッカーをする。みんな、ボールに集まる。
ひとりだけ、気が弱くてスポーツの苦手な子がいて、
離れたところでぽつんと立っている。
みんな、ボールに集中していて、そのことに気づかない。
でも、ひとりだけ、それに気づいた子がいて、やさしいパスを出してやった。
みんな、おい、なにやってんだよ、と、怪訝そうな顔をボールの行方に向けると、
気の弱いあの子がいた。
その子は、周りに人がいないから、すいすいボールをキープして、ゴールしてしまった。
このとき、パスを出した子は、いい子ぶってるわけではない。
偽善者ぶったわけではない。だって、単に点を取ったんだから。
つまり、善行が、論理的に正しいということになる。
仲良くしたほうが得だということは、まぁ、だいたい真理です。
周囲に適切に気を使えるやつ、つまり大人でやさしいやつ=視野が広いプレイヤー、となる。
まぁ、上述のパターンはあまりに単純で、コミュニケーションと関わりなくすぐに真似できるから、禁止になったけど(オフサイド)。
サッカーは、アスリートとしての能力は、大事だけど本質的というわけではない。
単に、コミュニケーションの能力があるかどうか、これが大事。これはむずかしい。
おもねるのではだめだし、突き放しすぎてもだめ。フラット3のようなものです(笑)。
周知のように、コミュニケーションにおいて、1+1は2ではなく、3にも4にも10000にもなる。加算ではなく、累乗。普段は気づかないんだけど、いつのまにかそうなってるときがある。もっとも典型的な例は、男女だと子供が生まれるということで、兆候があったりするとあせったりもするんだけど(笑)、言葉があるおかげで、男女に関わりなく、年齢に関わりなく、コミュニケーションできるようになった。「社会」ですね。むかし、言語学者が、言語学はエロティックだと言っていたけど、まぁ、わからなくもない。
こうやって、人間は、複雑な「社会」を築いたんだし、それを活用しない手はない。
サッカーは、こういう人間性がもっとも一致しているスポーツのひとつだと思います。
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