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▼ロバさん:
お久しぶりです。
>でも今はまだ「トレーニング」の最中で今回のように啓太をCBに下げたりしてチームに意図的な付加をかけている状況では好みも何も・・・。
「オシムがやらせようとしているサッカー」はもうはっきりしていると思います。
啓太や今野をCBに下げたりしているところからも、バックスと中盤の流通性を良くしたいのは確かで、攻守に渡って機動性を重視するのも確かでしょう。
このチームがフラットなラインを敷くこともないだろうし、このチームがスピードよりポゼッションを重視することもないでしょう。
マークをしっかりすること、切り替えを速くすること、素早く攻めること、サイドを使うこと、そうしたコンセプトは今後も変わることはないでしょう。
で、ぼくはあまり好みではない。
オシムさんは「走る」ことを普遍的な真実のように語っていますが、実はこのサッカーだから一層「走らなきゃならない」という要素は強い。
マンマークでワイドに攻めるのでコンパクトにはならず、バックラインと中盤の流通性を重視(緊密な関係)し、そのうえ速攻を志向するわけですから、当然相手よりも走ることが勝つためには要求される。
じゃなきゃ攻撃に厚みなんか金輪際出ないし、決定力の低いチームがそれで勝てるわけもない。
こうしたことは当然、「傾向」として選手構成に反映されてくるわけです。
で、ぼくはその「傾向」があまり好きになれないし、何より嫌なのは、みんな代表には入りたいわけですから、Jリーグでも選手達がその「傾向」を意識し、やたら走るようになっていること。
「画一化」です。
別によく走る選手だけが良い選手ってわけじゃないですからね。
もちろん今後ベースは上がるでしょう。
海外組の松井、中村俊輔あたりは入ってくるだろうし、クラブでの活躍次第では稲本や小笠原、中田浩二や大黒にも多少チャンスはあるでしょう。
でも、その「傾向」が変わることはないでしょうね。
ぼくはかつて、トルシエのサッカーを「ワーキング・クラスのフットボール精神」と呼びましたが、それでもトルシエの「傾向」には「ダニッシュ・ダイナマイツのデンマークが大好きだった」なんていうフットボール・マニアとしてのトルシエの「夢」も見て取ることができた。
4バック隆盛のフットボール界に「フラット3」を振りかざした「野望」もあった。
オシムはもっとリアリズムが強い。
もっとずっと冷静にモダンフットボールというものを分析し、日本の現状と相対的な位置とをしっかりと把握し、実際的にやっている。
それはもちろん、間違いだなんて絶対に言えないのですが、あらかじめ限界を設定している、とも言えてしまう。
それが「つまらなさ」のひとつの原因になっていないか?
(流通性の副産物としての阿部、啓太、今野なんて起用にも現れている、バックスのあり方だけは面白いですけどね)
ドイツ・ワールドカップで、アルゼンチンはオリジナルな美しいサッカーをしました。
それはいくぶんモダンフットボールへのアンチテーゼですらあったと思うし、しかし「個への回帰」という流れの中で出られたものだったかもしれない。
いぜれにせよ、アルゼンチンの選手達はアルゼンチンらしいサッカーをした。
準々決勝で現実の前にそれは飲まれましたが、それでも多くのフットボール・ファンが「一番美しいサッカーをしたのはアルゼンチン」「アルゼンチンvsメキシコがベストバウト」と言ったことでしょう。
つまり、大きな印象を残した・・・
現実的に、日本はワールドカップではグループリーグ敗退かいいとこギリギリ突破できるか、という所にいて、そういう段階を積み重ねた上で踏み越えて行かないとさらに上には行けない、とみんなわかってる。
で、ぼくは感傷的だとは思うけどそういう時代の日本には結果はともかく「大きな印象」を求めてしまうんです。
つまり「夢」を。「野望」を。現実への「反抗」を。
「残念ながらモダンフットボールの流れでは・・」なんてオシムの発言には、「だったら逆らえよ!」と思っちゃうわけで。
まあもちろん、そんなこと言ってるとアジア予選で足をすくわれるぞ、と言われればそれまでなんですが。
でもね。
モビリティに優れ、走ることを厭わず献身的にプレイできる、という点からはオシムのサッカーは確かに「日本人に合っている」ということもできるけれど、それは一面に過ぎない。
繰り返しになるけど、大正時代から中盤重視でショートパスを細かく繋ぎ、スルーパスに喝采してきた長い歴史、それでスウェーデンを破った「ベルリンの奇跡」、ブラジル系選手達から受けて来た影響と憧憬、読売クラブの黄金時代とそれがもたらしたもの、全盛期のジュビロのサッカーへのリスペクト、そうした「志向」や「流れ」はある。
実は黎明期から綿々と繋がってきているんですね。
結局はそれを無視することはできないと思うし、モダンサッカーがどうだからと無視したってロクなことになりはしない、とぼくは思うのです。
「オシムのサッカー」がスパイス程度になることを、そうした「強い」代表選手達になることを、強く望んでいます。
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