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▼zukunasiさん:
>大変なエネルギーを使わせているようで、恐縮です。
いいえ、こういう対話によって考えること、書くことで得るものは多いですから。
ぼんやりとした想念がある程度明確になったり、観戦の助けになったり。
あるいは、文章を書くことが進歩したり(?)と。
>でもこれは、ジーコはいてもいなくても同じだ、と言っているようなものですね。まずいですね。
あっ!
バレたか・・・ではなくて(笑)
監督って、いろいろいますね。
そしていろんな仕事がある。
戦術や戦法や戦略を考えるピッチの上の仕事だけでなく、スタッフも含め「チーム」というひとつの生き物のような存在をまとめて行く力、人間関係やそういった人間的な側面での手腕、選手に力を発揮させるために整えるべきこと、対外的な手腕、そういったピッチ外の仕事の割合も大きい。
そういった面の評価は、なかなか見えないことなだけに難しいと思いますけど、不可欠なもののはずだし、えてしてチームにとってはそちらの方が影響が重かったりもする。
チームを家族に例えれば、監督は父親みたいなもので、「家族の取り決め」をことこまかに決め、息子の教育にも熱心でってオヤジもいれば、一見何にもしなくて、でもちゃんと見るべきところは見てて、ここっていう所ではビシっと言って、家族を良い方向に導くオヤジでもいい。
息子のデキが良くて優秀なおかあちゃん(例えばコーチ達)がいれば、それでもいいわけですね。
映画の撮影でも監督がいて、脚本からキャスティングから基本的に全部自分でやって、演技や画面構成や光にも自分の「色」やこだわりを持って自分で指示するカリスマ監督もいれば、それぞれの分野に信頼できるスタッフをおき、専門のことはある程度専門のプロにまかせ、トータルで良いものにするために全体をオーガナイズし、全体の力を引き出して行くことに長けた人もいる。
そうした意味では、ジーコ監督の評価はまだよくわからない部分もあるというのが率直なところです。
ただそれでも、全体的な体制としては今のままで良いとは思わない。
例の中で言えばジーコは後者なのかもしれませんが、ならばバックアップする体制に物足りなさを感じます。
>この部分かな、トルシエ時代もジーコ時代も、難しさにさほど変わりは無いんじゃないかな。
結局、トルシエ時代だって「実戦的な応用」の部分は足りませんでした。
ただ、「組織的な連動」の約束がない、「オートマティスム」によって習慣化された「自由への保証」がない、という所では、「応用するための環境」を整えたトルシエと環境作りからやらねばならない今とではキビシさは違うと思いますよ。
「フラット3」の細かな動きの約束によって、それとの全員の連動の約束によって、オートマティスムによるカバーリングの保証と積極的なスペースへの侵入によって、ボールへの早いプレッシャーは行いやすくなり、素早い切り替えもしやすくなり、速い攻撃も、攻撃での味方の連係もしやすくなった。
いつどこにどうやってプレッシャーをかけねばならないのか、どこでどうやってどういう連係プレイをするか、といった「それからのこと」は選手が自分達で考えてせねばなりませんでしたが、環境や道具は揃っていた。
テーマも決まっていましたね。
コンパクトで速い、守備も攻撃も主体的にやるサッカー。
今回は、何も与えられていない。
どういうサッカーをするかも、どうしたらそれが可能になるかも、自分達で考えやって行かなければならない。
だからこそ個の持つポテンシャルがモロに出るのです。
モロに出るからこそ、鍛えられるでしょう。
「コンパクトで速い、守備も攻撃も主体的にやるサッカー」は、トルシエが与えた哲学です。
「トルシエは『コンパクトで速い、守備も攻撃も主体的にやるサッカー』をするから、日本が目指すサッカーに合うし、だからトルシエにしよう」
というように選択されたワケではない。
ジーコにしたってそうです。
「トルシエで組織組織で嫌になったから今度はブラジルのように自由なサッカー」というネガティブな動機は「キャプテン」にはあったかもしれませんが、そんな幼稚なものではなく「日本代表のサッカーはこうあるべきだ」というある程度の日本サッカー界のコンセンサス、そのためにはどうせねばならないか、ということも含めて、そろそろはっきりと生まれるべきです。
そのためにも、一度「素」に戻ることは必要なことだったのではないでしょうか。
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