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▼ロバさん:
>それでもあまりに世の中がオシムを評価する風潮には???を感じずにはいられませんでした。
先生、師、父、そういった「信頼でき、尊敬できる偉い人」を求めているのでしょう。
クラマーしかり、オシムしかりで、そういうのに近い存在の人が現れると全面的に信頼しようとし、全面的に頼ろうとするような風潮は感じますね。
依頼心、でしょうか。
>これでいつか日本人の求めるサッカー、日本のサッカーなんて漠然とでも統一されるのだろうか(統一はされないか・・・笑)
統一されすぎてもつまりませんが(笑)
それでも、今のJリーグを見ていても、「良いサッカーしている」と評価される複数のチームに、あるひとつの方向性は感じます。
今でも、漠然とでも、潜在的にでも、それはある、と感じています。
そしてそれは、これまでの日本サッカーの歴史と決して無縁でなく、オフトも加茂もトルシエもジーコもオシムも、読売クラブも日産も鹿島もジュビロもガンバも、帝京も清水東も鹿実も野洲もすべて、その中にきっと息づいているはず。
それと、「スター」ってやっぱり大事なんですよね。
必要以上にもてはやし、トルシエが言ってたような「スターシステム」を作り上げて祭り上げ、実力以上にスター扱いしてはしょうがないんですが、それでもやはり、スター選手って大事なんだとぼくは思ってます。
ブラジルにペレやジーコやロナウジーニョがいなかったら、どうでしょう?
フランスにプラティニやジダンがいなかったら?
そういう選手達が、それぞれの国のスタイルをも確固たるものにしてきたのではないか?
例えば現レアルマドリーのアルゼンチン人MFフェルナンド・ガゴは、子供の頃からずっとレドンドに憧れ、プレイしてきたそうです。
カンビアッソもそう。
そうして「アルゼンチンの5番」は継承されて行く。
そうして「アルゼンチンのスタイル」も継承されて行く。
スタイルっていうのは根本的に、だから選手達が創るもの、とぼくは考えています。
だから良い選手はみんな使えば良い。
良い選手から使えば良い(良い、の見極めを隔たりなくすることが難しいんでしょうけどね)。
そこには技術のある選手、スピードのある選手、頭の良い選手、強い選手、いろいろいるでしょう。
それを適材適所に配し、それぞれが生きるようにすることが「代表」監督の仕事だとぼくは思う。
どんなサッカーになるかなんて、だから結局は選手次第だと思うのです。
それが結局は、「日本らしいサッカー」になるってもんだと思うのです。
「こんなサッカーが日本らしい」と定め、それを実現するために適した選手を呼ぶ、というようなやり方は、だからぼくは反対です。
それは、能力制限にも繋がってしまう(だからみんな、オシムのサッカーを支持する人でも、その選考には物足りなさを覚えたのです)。
ありったけの全部を出し、主張し合い、ぶつかりあい、考え、振り絞って、作り上げて行く。
どんなサッカーになるかなんてその結果で良い。
そういうものだけが普遍性も得る。
そうして個々も、スタンダード足り得るものになって行く。
コンセプト・プロダクツというのは、スマートにやりたいことを実現する手段だけれど、流行にはなっても普遍的なものにはなりにくいのです。
(まさしくロバさんが書いたように「オシムのサッカーは一つのムーブメントとして広がることはあっても、日本代表のサッカーとして普遍のものになるなんていうのは幻想だと思ってます」ということですね)
よく走る選手もいて、歩いてサッカーする選手もいて、うまい奴も強い奴もいて、それぞれのキャラがよく立っていて、「チーム」になっている。
そんな豊かなサッカーになることを願っています。
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