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▼KEANEさん:
集団競技チームにおける監督の仕事のうち、戦術的な部分等はぼくは二義的なものでしかないと考えています。
もっとも大切なことは「チーム・スピリット」をいかに作りあげうるか、という部分でしょう。
それは「コレクティブ」であるか否かということでもなければ、チームへの献身性のようなことでもなく、ピッチ内外において「チームをひとつの『チーム』としうるか」ということであり、その面を無視して監督の能力をうんぬんすること等、意味のないことだと思っています。
>いくつかの同様な状況に対する叩き台を与えながら対応力をつけていくことも一つの指導だと思います。
確かにそれもひとつの指導のあり方でしょうが、「それも一つのあり方」以上のものではないとぼくは思います。
言い換えれば、「必ずしも監督がせねばならないことではない」ということ。
「典型的なもの」として「いくつかの同様な状況」は存在し、それに対するチームとしての対処を明確にしておくことは必要だと思いますが、それも選手間の相互理解の上に成立するものであり、(約束ごととしての『相互理解』だけではなく、互いの長所短所、能力の理解と信頼、といったような部分も含め)それがなければ「同様の状況」とはいえ、それは「形」として同様なだけで実質的にはそれを行う相手も違えば速度も違えば試合の流れの中での意味あいも違い、実は毎度毎度違ってくる「同様の状況」への真に正しい対処はできないでしょう。
ましてや、頻度の高い「同様の状況」であればあるほど(それは効果的でもあるからですが)選手達個人の中では「既知の現象」であるはずで、代表クラスの選手同志であれば選手間の理解が深まってさえいれば応用的にも対処できるはず、という「チーム作り」の面も含めた「チームのあり方」も当然あるでしょう。
そうしたことまでを含めて考えたなら、ひとつひとつの試合においては、今のようにジーコがどうこう言う前にもっと具体的なディテイルにおいての選手の判断やそのミス、ひとつひとつの動き等から語られるべきであり、そこでは監督ではなく選手が主役であるべきだと考えます。
どう考えても監督にばかり注目が集まりすぎている。
「代表監督としてジーコがふさわしいかどうか」を語るなら、同様に「誰それ選手は代表としてふさわしいかどうか」も語られるべきであり、監督も「このチームの一員(または一因)」とした中での「チームとしての評価」という視点が少なすぎるのは、「監督依存」という他ないでしょう。
そしてその監督の評価にしても「ひとつのあり方」に縛られ、もっと重要な視点が欠けているようにも感じています。
監督がもたらす「戦術」面のことなんてオマケみたいなものだ、と言ってしまいます。
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