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▼KEANEさん:
>私は与えながらそれをどう応用させて考えていかないといけないのかが大切だと思っています。
何がどうあれ、「まず与える」ことが前提だというわけですね。
考えるのは「与えたことを応用」することだ、と。
何度も言いますが、「それもひとつのやり方」以上のものではない、というのがぼくの立場です。
「まず与える」のではなく、繰り返しになりますが「まず自由にやらせる〜その中で出た課題を考えさせる〜修正のための話し合い、トレーニングを行う」という方法論は確実に存在し、かつ、「自分で考えることが苦手」であることを克服することが課題であるのならば、そちらの方法を取るほうがずっと問題解決の近道だろう、ということです。
何度も言ってますけど。
一般論として、KEANEさんのおっしゃることは別に間違っていないと思うし、そうした方法論もまた「チーム作りと強化」の手段として正当なものであると思いますが、「チーム作りと強化」の方法論はひとつの解のみが存在するわけではなく、そのチームチームで独自に抱える問題解決のためには、その目的に応じた手段、方法が取られるべきでしょう。
>じゃあ、そんな頭がジ−コにあるんでしょうかね?そこまで切り替えのできる柔軟な包容力がありますかね?
先のぼくの意見に対するものとしては、何をおっしゃりたいのかよく理解できませんが。
「そんな頭」がジーコにあろうとなかろうと、現実に「より多く自分で考えなくてはならない状況」になっているし、「個々が自分達で判断し、周囲との繋がりを作り、それを拡大して行くこと」が必要とされているのは確かです。
つまり最初からそういう方法論を取っているのであり、「切り替える」必要は端からないでしょう。
要するに哲学、方法論の違いなのであって、「柔軟な包容力」とは問題が全然違うと思います。
>私はトップダウンだろうが、選手の状況を考えようが両者は持ち合わすべきものだと思っています。
ぼくは「選手とともに作って行く立場からチームを作り上げて行く、という方法論の監督も多く存在するでしょう」と言ったのであって、監督が何もしないという方法もある、と言ったのではないのですが。
失礼ながら、もう少しこちらの書いたことの主旨をご理解されてから反論なりしていただくと助かります。
そうすれば引用ももう少し少なくて済むかと。(すみません、別に長いとダメだということではないのですが、読みづらいという意見もあったので、よろしくお願いします)
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