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何故、協会の体質改善を要求するのか。
何故、川淵会長に辞めてもらいたいのか。
どうして今、世代交代を望むのか。
それらの理由をあげます。
まず日本代表について、協会はいつも節目で迷走します。
忘れられないのは5年前、当時の加茂周監督の任期切れの際、協会幹部は「続投」で固まったのに対し、強化委員会は当時のネルシーニョ・ヴェルディ川崎監督を推した。この時は最終決定を会長や副会長などからなる幹部会にゆだね、強化委員会の権限を事実上制限したが、加茂監督が一度は辞退するなどしこりを残した。監督人事の実質的な決定権と責任の所在があいまいなのは、トルシエ解任騒動〜留任決定、ジーコ就任の過程もみな同じ。
ネルシーニョが「(協会は)腐ったミカン」と吐き捨てたのはもう風化してしまったでしょうか。
また、この加茂〜ネルシーニョ騒動の時も、ある関係者は「それは学閥が大いに関係ある」と漏らした。長沼会長、加茂監督はともに関西学院大の出身。
現在の川淵会長がさかんに将来の日本代表監督として岡田武史氏の名を出すのも同じ理由。さらにはトルシエ解任騒動の時に西野朗氏の名が出たのも同じ。
川淵と岡田は早稲田〜古河の先輩後輩、西野も早稲田。
現在の協会も早稲田出身、古河出身者が多くを占めており、学閥、企業閥の力学は生きています。
個人名はあげませんが、ある古河出身の常務理事などはテレビのサッカー解説で知識のなさ、見る目のなさでは衆目の一致するところだったのにもかかわらず、現在も代表強化に関わる要職についている。
こうした不健全さ、アマチュアイズムを改善せねば、真の日本サッカーの国際的地位向上、代表チームの誤り無き発展が得られるのは難しいだろうと考えます。
また、Jリーグ創設とその発展には、川淵氏がいなければあり得なかったかのように言われています。
もちろん、その面での川淵氏の功績は否定されるものではありませんが、Jリーグの発足自体は89年に端を発します。
ソウル五輪の出場権も逃し、先細りの一途を懸念された日本リーグは、Jリーグの基になる「スペシャル・リーグ創設」の答申案を提出しました。
それを88年に作成したのは「日本サッカーリーグ活性化委員会」で、そこにはすでに「2002年ワールドカップの日本開催」までも明記されていたのです。
そこには当時のアベランジェFIFA会長の「FIFA世界戦略」の後押しもあった。
両者の思惑が一致したことで「2002年W杯日本開催」は現実的な話になり、それと二人三脚の形でJリーグ創設へ漕ぎ着けられた。
アベランジェと対話し、活性化委員会で実効的な役割を担っていたのは、まず小倉純二現副会長です。
しかしJリーグ発足後、チェアマンとしてJリーグの顔になった川淵氏は、次第に権力を強めた。
マスコミにも露出し、自己アピールの能力に長けているというだけで、いわれるような手腕、リーダーシップがあるのかどうか。
Jリーグ自体もバブル景気と同年の「ドーハの悲劇」(何にせよそれまででワールドカップへ一番近付いた代表だった)によって注目を集めたサッカーの盛り上がりに乗って華々しく開幕し、見事に98年ワールドカップ初参加を成し遂げましたが、その裏で選手、サポーター無視の横浜合併事件等もあったことは忘れてはならないでしょう。
この時、川淵チェアマンは一方で「何十万の市民が動けばわからない」等と言いながらフリューゲルスの選手との会談では、その時には何十万の市民が実際に動いていたにもかかわらず「早く移籍先を捜せ」と言ったり、そもそも半ば規約違反の詭弁的合併、事実上のルール無視の撤退を即断で承認したのはほとんど従犯と見られるべきでしょう。
「100年構想」「地域密着」を掲げながら、地域クラブだった横浜サッカークラブを乗っ取った全日空*(その存在すら問題)の「企業の論理」の口馬に乗り、選手、サポーター無視で規約違反の合併を認めた自己矛盾をぼくは忘れません。
「日本サッカー協会」が、そんな人物が代表監督を独断で決められるような組織であって良いわけがないのです。
Jリーグチェアマンに鹿島の鈴木氏が就任し代表監督をジーコに決めるあたり、今度は住友と何らかの密約でもあるのか、と勘ぐりたくもなろうと言うものです。
現代表の迷走ぶりを見るに川淵氏の見る目のなさ、現代サッカーへの理解の欠如はあきらかで、また強化委員会によってリストアップされた監督候補を「俺の知らない名前ばかり」等という理由で無視し、勉強しようともしない無能ぶりは、現在のマスコミとサッカーファンの温度差とも似て、現場との乖離を示します。
これらのことから、過去に功績があったことは確かだし認めるが、もうこれからの日本サッカーを率いて行くには能力不足と思うのです。
宣伝イメージに騙されてはいけません。
今の日本は、ワールドカップに出場し、自国開催し、選手を海外に送りだし、そうして「世界のサッカー」の一員に溶け込もうとしている大事な時期。
きちんと「世界のサッカーの今」を知る、「世界のプロ」の世界を知る人物、「世界のプロ」と同じプロの基準、常識でサッカーの環境、状況、その分析を語れる人物になってもらいたい。
もう、そう望むべき時だと思うのです。
我々ファンは98年のワールドカップ初参加、トルシエ時代の4年間、2002年の日韓大会を経てこうしたインターネット力も借り、個人サイトも百花繚乱、議論も重ね、大きく進歩したように思います。
マスコミが半ばそうしたファンに付いてこれなくなってきているのと同様、協会幹部ももう見合ったものではなくなってきている。
あるいは、ナショナル・トレセン(80年から本格化、加藤久氏等の尽力により拡大整備される)は指導者層のレベルアップもうながしている。
そうした面でも協会首脳部もステップアップしなければならない時だと思う。
もう、古いアマチュア体質を脱しなくては先がないし、腐ったミカンはいらないのです。
*全日空による横浜サッカークラブ乗っ取り
横浜サッカークラブは64年に設立された「中区スポーツ少年団」が前身。
71年神奈川県リーグ3部で優勝し、72年には2部リーグ優勝。75年に「横浜サッカークラブ」に改称して横浜初のサッカークラブチームとして発足した。
79年、全日空が援助開始。同時に「横浜トライスター・サッカークラブ」に改称。
神奈川県リーグ1部優勝、82年関頭リーグ3位、83年関頭リーグ優勝。地域リーグ決勝大会優勝で日本リーグ2部に昇格。
この後、社員選手を雇用し、横浜サッカークラブの選手を退ける。
84年、「全日空横浜サッカークラブ」に改称、1部昇格、全日空スポーツ株式会社を立ちあげる。
同年12月、「全日空サッカークラブ」となり、横浜の名残りを消し去るとともに乗っ取り完了。
小額の「援助」で経営に参入、クラブ立ち上げ〜県リーグ強豪〜日本リーグ昇格となるまでの手間と時間を省き、昇格してから自らが集めた選手を使って「横浜サッカークラブ」を消滅にかかるなどの「計画的犯行」だった。
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